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戦国武将として箕輪城主長野氏に属していた伊勢守は、武田信玄により箕輪城が落城さるるのを機に、新陰流弘流のため廻国の旅に出ます。大和柳生の庄に於いて柳生宗厳【やぎゅう
むねとし】に印可相伝。上洛の際はその兵法を将軍足利義輝に上覧し「天下一」の感状を送られたり、従四位下に叙せられるなど剣術家中最高の栄誉を得るものの、晩年の詳細については残念ながら伝えられておりません。
「柳生石舟斎宗厳」
享禄2年(1529)、戦乱の中に出生した柳生宗厳(後の石舟斎)は少時より兵法・兵術に志篤く、学問にも精を出し、その勇名は五畿内に轟いていたといわれています。
永禄6年(1563)、伊勢守一行が大和に訪れた際に、宗厳は宝蔵院に於いて三度試合するも、三度負けるや伊勢守に師事し、伊勢守も柳生の地に滞在して指導にあたりました。宗厳は日夜稽古鍛煉に精進し、永禄8年(1565)4月、上泉伊勢守より願望された「無刀取」の術・理を完成するに及び、ここに新陰流第二世を承け、更に翌9年5月、影目録四巻を授かりました。その後も宗厳は新陰流の研鑽・整備に努めます。
天正元年(1573)よりは号を石舟斎と名乗ります。文禄3年(1594)には徳川家康に請われ、五男の又右衛門宗矩と共に新陰流を披露しました。この宗矩が徳川秀忠の剣術指南役となり、江戸柳生家の開祖となります。石舟斎はその後も嫡孫兵介の訓育にあたります。この兵介が後の尾州柳生家の開祖
兵庫助利厳【としとし】です。
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「ふくろしない」

「活人刀」

宗厳が切ったとされる一刀石 |