新陰流とは

 
  新陰流兵法【しんかげりゅうひょうほう】は、流祖 上泉伊勢守信綱【かみいずみ いせのかみ のぶつな】が戦国の世に創始した、日本の剣術を代表する流派です。上泉伊勢守は、日本剣術の三大源流と呼ばれる念流・香取神道流・陰流を学び、特に陰流より「転【まろばし】の道」を抽出し、ここに新陰流を創始しました。
 その後、柳生石舟斎【やぎゅう せきしゅうさい】が第二世を継承。その子宗矩【むねのり】が徳川将軍家の剣術指南役を務めたことなどにより、広く世に知られるようになりました。
 新陰流の剣は心技において構えをなくし、攻めと守りを一つにした「無形」を極意とします。これらは相手を威圧して斬る「殺人刀」に対し、相手に技を出させて勝ちを取る「活人剣」として、敵を大いに働かせ、自らは「居ながらにして勝つ」妙技といえます。
 新陰流兵法転会では、流祖伝来の『本伝』のほか、江戸期に尾張柳生家に於いて本伝を改定した『内伝』、試合を想定し長岡桃嶺【ながおか とうれい】によって編み出された『外伝』を教習しています。
 



 
  新陰流兵法小史

 
  上泉伊勢守
新陰流流祖
「上泉伊勢守」
流祖「上泉伊勢守」
 新陰流流祖 上泉伊勢守秀綱(後、信綱)は、足利時代末期の永正5年(1508)上泉城(群馬県前橋市上泉)に生まれました。一族の先祖は藤原秀郷といわれていますが、秀郷の子孫で大胡(群馬県勢多郡大胡町)に住した大胡一族があり、その一族より上泉に移り住んだ上泉勝俊が伊勢守の直接の祖先にあたります。
 絶え間なく続く戦乱の世、伊勢守は戦国武将の子たるべく、幼き頃より兵法・兵術の修行に励む一方、勉学にも励み、さらには高僧より禅の提要をも受けたといわれています。また小笠原武勇入道氏隆より軍法軍敗の相伝を受けるなど、若くして大兵法家の名を轟かせていました。

 兵法(剣術)は当時の主流であった念流・神道流・陰流をはじめ諸流を学び、特に陰流の祖 愛洲移香斎【あいすいこうさい】より極意を授かり、人性に自然・自由・活発なる転の道を抽出し、日夜鍛煉工夫の末、新陰流を大成しました。
また、日本の竹刀の第一号となる「韜【ふくろしない】」を発明しました。これにより、実打し、さらに怪我の心配なく稽古することを可能にしました。
   戦国武将として箕輪城主長野氏に属していた伊勢守は、武田信玄により箕輪城が落城さるるのを機に、新陰流弘流のため廻国の旅に出ます。大和柳生の庄に於いて柳生宗厳【やぎゅう むねとし】に印可相伝。上洛の際はその兵法を将軍足利義輝に上覧し「天下一」の感状を送られたり、従四位下に叙せられるなど剣術家中最高の栄誉を得るものの、晩年の詳細については残念ながら伝えられておりません。



「柳生石舟斎宗厳」
 享禄2年(1529)、戦乱の中に出生した柳生宗厳(後の石舟斎)は少時より兵法・兵術に志篤く、学問にも精を出し、その勇名は五畿内に轟いていたといわれています。
 永禄6年(1563)、伊勢守一行が大和に訪れた際に、宗厳は宝蔵院に於いて三度試合するも、三度負けるや伊勢守に師事し、伊勢守も柳生の地に滞在して指導にあたりました。宗厳は日夜稽古鍛煉に精進し、永禄8年(1565)4月、上泉伊勢守より願望された「無刀取」の術・理を完成するに及び、ここに新陰流第二世を承け、更に翌9年5月、影目録四巻を授かりました。その後も宗厳は新陰流の研鑽・整備に努めます。

 天正元年(1573)よりは号を石舟斎と名乗ります。文禄3年(1594)には徳川家康に請われ、五男の又右衛門宗矩と共に新陰流を披露しました。この宗矩が徳川秀忠の剣術指南役となり、江戸柳生家の開祖となります。石舟斎はその後も嫡孫兵介の訓育にあたります。この兵介が後の尾州柳生家の開祖 兵庫助利厳【としとし】です。


ふくろしない
「ふくろしない」


活人刀
「活人刀」


一刀石
宗厳が切ったとされる一刀石
  柳生但馬守宗矩
「柳生但馬守宗矩」




新陰流兵法太刀目録
新陰流兵法太刀目録
江戸柳生の開祖「但馬守宗矩」
 石舟斎の五男宗矩が、二代将軍徳川秀忠・三代将軍家光の兵法師範となり、新陰流は徳川一門の「御流儀兵法」となりました。
 江戸柳生は十兵衛三厳、又十郎宗冬、又右衛門宗在と続きますが、宗在に実子がなく、血統は絶え以後代々養子が後を嗣ぐことになります。

尾張柳生の開祖「兵庫助利厳」
 石舟斎の嫡孫兵庫助利厳は、石舟斎より正統第三世を承け、後に尾張藩主徳川義直公に仕え、その兵法師範となりました。
 興味深い話として、寛永7年(1630)、名古屋滞在中の宮本武蔵が城下にて利厳と遭遇した際、お互いに名乗らずして相手が何人たるかを知ったという逸話が残っています。

「柳生厳包」
 正統第五世を継承した連也斎厳包【としかね】は、父利厳工夫の「直立ったる身の位(つったったるみのくらい=身勢)」を、新しい時代に応じた教えとして取り入れる一方、尾張藩主徳川光友公と相謀り、初学者のために「取揚げ使い」を考案しました。
 厳包は自著の新陰流兵法目録解説で、伊勢守・石舟斎の教えを「本曰」、利厳及び今の新しい教えを「厳曰」として筆録します。そしてこの解説書を自ら帰依する摩利支天尊の像と共に密封し、「後世これを開封する者あれば神罰を蒙りて盲目となるべし」と、開封することを厳禁しました。

  「柳生厳春」の新陰流中興
 十一世柳生厳春【としはる】は天資極めて豪邁な士でした。安永2年(1773)厳春32歳、この時連也死後87年を経過し、当流の口伝、術伝が疑義となる中、厳春は「連也先師たる者が斯くまで厳秘する所以のものは、これ必ずや当流の玄旨を密伝し、後人の顕彰を俟ったものであろう。たとえ神罰を蒙って盲目となるも厭わず」と、連也の密封した秘書を開封。ここに完全なる口伝書を得て感嘆崇拝し、これより一層相伝の正鵠を得ました。


   「長岡房成」と試合勢法
 長岡五左衛門房成【ふさしげ】[桃嶺と号す。宝暦12年(1762)生誕、嘉永2年(1849)8月寿終]は、古来相伝の本伝の講明と外伝試合勢法の祖述を成し、教習体系の整備を行い、新陰流の中興を成しました。
 尾張藩士であった長岡氏は、代々新陰流の補佐家として宗家を補佐してきました。中でも房成先師は、その祖述の大著数十冊に上り、当流中興の道業を建て、今日への相伝の礎を築きました。また、新陰流の理論を基に制剛流抜刀術を整備し、今日に伝えています。

 長岡桃嶺翁墓
「長岡桃嶺翁墓」
  柳生厳長
新陰流二十世
「柳生厳長」



渡辺忠敏
新陰流二十一世
「渡辺忠敏」
「柳生厳周」
 尾張藩最後の新陰流師範柳生厳周【としちか】は、21歳にて、父厳蕃ならびに兵法補佐長岡権六房躍より正統十九世の印可を承け、尾張藩剣術教導総裁も勤めました。維新の荒波を切り抜け、その後も新陰流の遺伝に努めました。

「柳生厳長」
 二十世柳生厳長【としなが】は、近衛師団師範等を勤め、戦後は柳生会東京月例会および著書『正傳・新陰流』において伝書等を公開するなど、新陰流の遺伝・弘流に努めました。

「渡辺忠敏」
 渡辺忠敏【ただとし】は、大正6年(1917)柳生厳周に入門、厳周引退後は柳生厳長に師事し、厳長の晩年にはその補佐役を勤めました。
 柳生厳長より新陰流の後継者に指名され、新陰流兵法二十一世となる。新陰流兵法転会他において新陰流を指導。
 著書に『新陰流兵法太刀伝』・『柳生流兵法口伝聞書』があります。

「渡辺忠成」
 渡辺忠成【ただしげ】は、昭和44年(1969)1月、新陰流兵法転会を結成し、新陰流の弘流・顕彰の活動を始めました。
 昭和47年(1972)、新陰流の道統を継承し、新陰流兵法二十二世となる。現在も新陰流兵法転会において鋭意活動中です。





                                  ご挨拶         新陰流の太刀